こうそふ

Share

 日本軍が○○を占領、という報道がある度に世界地図に旗を立てて、「うーん、たいしたもんだ」と感心していた人物がいた。母のひいじいさんだ。ワタシにとってはじいさんのじいさんだから高祖父になる。
 このじいさん、「日本がオロシャ(ロシアのこと)と戦争して勝ったなんてたいしたもんだ。ご先祖様へのいい冥土のみやげになった」というのが口癖だったらしい。そんな話がはじまると家族は「またじいさんの昔話がはじまった」と辟易していたというが、母はそんな話しをよく覚えている。1840年代末頃に生まれと推定される高祖父は、晩年、ワタシの母と一番仲良しだった。材木屋だった母の実家の離れで一人で住んでいたのだが、忙しい両親や年の離れた兄弟よりも、このひいじいさんが一番母の相手をしてくれたのだ。また、ひいじいさんの昔話を一所懸命聞いてくれるのは、まだ子供だった母だけだったということもあっただろう。ワタシはこの高祖父の話、しかも同じ内容のものを何回も繰り返し聞かされたが、生き証人が語る生き証人話、ということで今でも飽きることはない。同じ話でも、こちらの人生経験如何でまた異なった趣になるものだ。
 高祖父は黒船が来たとき、弁当を持って歩いて見物に行ったそうだ、と母は言う。年齢を計算すると最初の来航ではなさそうだし、その後の来航についても本当に本人が行ったのかどうか疑わしい。だが、「みんな行った」というように伝わっているので、亀有村から誰かが歩いて行った、ということはあったのだろう。現代のようなマスメディアが発達した時代ではない。黒船来航は人の口から口へと伝達され、そのうわさは都内でもはじっこの方の亀有村まで到達したのだ。それだけでもなんだか驚きだ。
 もう一つ、高祖父の話で良く出てきたのが、「上野のお山の戦い」だ。上野における戦闘の火の手は亀有村からもはっきりと見えたという。母の実家は旧水戸街道沿いにあったのだが、その通りを負傷した彰義隊の若者が次々に逃げてきた。さらに、兵隊ばかりでなく、怪我をした一般市民もたくさん逃げてきたというから、戦闘の規模が窺える。高祖父もご近所と一緒にけが人のためにお湯をわかしたり、水や食料を援助したそうだ。
 幕末、日露戦争、日中戦争、というとなんだか全然時代が違う気がする。これを全部リアルタイムで経験してきた人がいた、となると、人の人生というのは意外と長いもんなんだなあ、と思う。まあ、当時としては奇跡的な長生きをした人ではあったのだが。因みに高祖父は1930年代の終わり頃、89歳で他界した。朝食後、こたつでうたた寝をしている時に、母が「ねえ、おじいさん、そんなところで寝たら風邪ひくよ」と揺り動かしたら死んでいたそうだ。母にとっては一生忘れられない衝撃だった。母が昔語りを繰り返すのはそんな高祖父の影響も大きいのかなあ、と思う。

Lucy

Second Lifeに棲息しつつ、いろいろと音楽を勉強中です。詳しいプロフィールはこちら http://lucytakakura.com/about-lucy

コメントを残す