おろしゃ

Share

 高祖父はロシアのことを「おろしゃ」、ロシア人のことを「ろすけ」と呼んでいた。「ろすけ」って露助かな、なんだかすごい言い方だなあ、そんな風に呼んでおいてなんでロシアの上に「お」をつけるんだろ、大国だからかな、と思っていた。あれから数十年、最近になってようやく生のロシア語を聞いた。なんと、ロシア人が「ォロッシャ」と言っているではないか。そしてロシア人、ロシア語、は「ロスキ」だった。露助の方はすっかり差別語となってしまったが、最初に言い出した人はひょっとしたらそのつもりはなかったかもしれない。ロシア語をちょっとでもやったことがある人にとっては何を今更と思うことかもしれないが、自分にとってはちょっと驚きだった。参考までにこちらをどうぞ。
 母も同じことを言っていたことがある。高祖父が帽子をシャポー、コートをマントと言うのを聞いて、やだな、ひいおじいさんナマっちゃって、と思っていたが、自分がフランス語を習いはじめてそれがフランス語だとわかり、えらくびっくりしたそうだ。
 前にも書いたが、母の実家は材木屋で、祖母はそのおかみさんとして忙しく立ち働いていた。外国などまるで縁の無い人だった。ところがある日、母が英語のリーダーとして使っていたBlack Catを音読していたら、祖母が「そこ違うよ」といきなり言うのでその場で固まってしまったという。なんでわかったの?と訊いたら、女学校でやったんだ、と。また、後に祖母と住んでいたワタシの従姉妹が「英会話ができない」という話をしていたら、祖母に「おまえは大学まで行ってるのに英語もできないのかい?」と言われたそうだ。
 高祖父は「若いもんの作るメシは口が合わない」といって、自分のメシは自分で作っていた。祖父はじいさんのためだといって当時まだ高価だったガスコンロを高祖父だけのためにもうひとつ追加した。祖父は胃が弱く、朝から米のメシは食えないといって、朝食はいつもトーストだった。だからバターはあった。高祖父はそのバターでトマトを炒めて食べていた。「ほかの家族はウェーッなんて言ってたけど、けっこうおいしかったよ」と母は言う。
 激動の現代社会、というが、どうだろう。祖母、そして高祖父にとっての方がはるかに「激動」じゃなかっただろうか。ちょんまげを結っていた高祖父が黒船に出会い、外来語を使い、日本領土の拡大に湧き、そしてトマトをバターで炒めるまでに至ったことを考えると、ワタシたちよりはるかに適応能力があったのではないかと思う。祖母だって、現代の若者のように「え、えいご、、?」と腰が引けるようなことはなかった。きっと変革を恐れない、新しいものにビクつかない度量の広さがあったのだろう。
 母76歳も負けていない。うちには80年代から母専用のパソコンがあった。ウィンドウズが出る前で、ファンクションキーやコマンドを打って操作していた。外付けハードディスクが出現したときは、母がドライバーを片手に拡張ボードを差し込み、SCSIケーブルをつないでいた。今でもパソコンは相変わらずだが、それにスポーツジムという日課が加わっている。運動目的のヨガや筋トレの他にダンスもやりはじめた。
「ラテンよりもうちょっと動きがあるものをやりたいねえ。でもジャズダンスはちょっとついていけないから、HIP HOPにしようかと思って。」
 韓国生活をちょっとしたくらいでネをあげているようじゃダメなんである。

Lucy

Second Lifeに棲息しつつ、いろいろと音楽を勉強中です。詳しいプロフィールはこちら http://lucytakakura.com/about-lucy

コメントを残す