昭和10年のカラー映像を昭和3年生まれに見せてみた

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「パンドラの憂鬱」で、「海外「日本は昔から先進国だったんだ」 戦前の東京を映したカラー映像が凄い」という記事を見つけ、こちらの映像に出会いました。

なぜかパート2の方が上に貼ってあったので、こちらから見ることになったのですが、おお、これは生き証人である昭和3年生まれの母の感想も聞きたいものだ、と思い、早速見せてあげました。この映像が撮影された頃の母は、きっとこの子供の歳だと思いますが、、、w

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銀座の風景に関しては、「うーん、もっと明るくて賑やかだったと思う」とか「人はもっと多かった」とか、いろいろ文句を言っておりました。そりゃそうですわ、母の記憶にある銀座は、多分この5,6年は後の話しですからね。

ところが、パート1のこちらの動画を見始めると、コロっと反応が変わりました。

母が「これこれー!」と反応したのはこちら。
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「まさにこれよー!」という母に、
「これって、芸者さんとか、プロの人じゃないの?」って聞いたら、
「そうじゃないわよ、年頃の娘は、みんなこれ。お正月っていうとやらされたけど、これがイヤでイヤで」
「なんで?いいじゃん、これ」
「冗談じゃないわよー。なんでこんなめんどくさいことしなくちゃいけないのか、ほんとにイヤでねー。そのうち、もう拒否して、やらなくなった。その後は、袖に火の粉が入ると危ないとかで、着物禁止になっちゃったからね、やらなくてすんだけどね。」

うーん、もったいないなあ。写真も残ってないし。

動画だとこんな感じですが
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自分の母が若い頃こんなだったと思うと、ちょっと誇らしいんですけどね。母の着物の写真は祖母と一緒に撮った七五三の写真だけ。きっと自分の意志で着物の写真を撮る気はなかったんでしょうなあ。

動画に出てくるお嬢さんはとても嬉しそうなんだけど、まあ、みんながみんなそうではなかったのかもしれない、ってことなんでしょうねえ。

終戦の日の翌日も、女学生だった母はまじめに「戦争に負けたなんて、陛下に申し訳ない。早速お詫びに行かねば」と亀有の家を出て、皇居に向かったんですよ。ところが、途中、銀座に人があふれているのを発見。「あっれー? みんな、銀座に遊びに行ってる、、、?」と思った途端、もう皇居に行く計画はどっか行っちゃったんですね。すぐに銀座に行こうと思ったんだけど、「銀座に行くのにこのかっこうじゃ、、、」と一度帰宅。防空壕にしまってあった洋服に着替え、銀座に行ったそうです。ただただ歩いた、と。70年経ってもあの日のことは忘れられないらしく、この話しはもう何度も何度も聞きました。

戦時中は、焼け跡の死体をまたぎながら、B29が飛来してくる中を工場まで通っていた母ですから、別に都会で裕福な生活をしていたわけではありません。それでもドラマや映画とは違った終戦を迎えているのです。

どんな大イベントも、人それぞれ、なんですねえ。今という時代がちょっとだけ違うとしたら、そんなちっぽけな歴史でも、こうやってサイバースペースに残すことができる、ということじゃないでしょうか。

昔の映像が出てきたら、また見せてみようかな。

Lucy

Second Lifeに棲息しつつ、いろいろと音楽を勉強中です。詳しいプロフィールはこちら http://lucytakakura.com/about-lucy

昭和10年のカラー映像を昭和3年生まれに見せてみた」への2件のフィードバック

  • 2014年9月18日 @ 09:56
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    ども、Secondlifeでお世話になってるyoutasanです(^^)。
    実は私の母も昭和3年生まれなんですよ、もう鬼籍に入りましたが。
    うちの母はその当時茨城の鉄道会社で働いていて銀座なんてラジオで聞いた事がある程度の場所だったと思いますw。
    戦前の写真館で撮ったらしき写真も鉄道会社の制服ばかりで日本髪を結ったなんて話も出て来ませんでしたね、天パーで日本髪に向いてないっていうのもあったみたいですが。

    終戦の日は「やっと終わったか」みたいな話が多くて駐留していた陸軍の隊長らしき人が「力及ばず申し訳ありません」と挨拶に来たとか、下士官が軍刀振り回して暴れてたとかいう話をよく聞かされました。

    亀有から銀座って距離ありますよね?
    おしゃれしてまた遊びに行っちゃうお母様のパワーに脱帽ですw。
    ではまた、Secondlifeでお会いしましょう。

    返信
    • 2014年9月18日 @ 13:11
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      おおお、youtasan!奇遇ですねえ。そうでしたか。うちの母も女学生ながら、「力及ばず申し訳ない、陛下に謝りに行かねば」という気になった位ですから、そんな思いを抱いた人が少なからずいたということですねえ。あまり伝わってない気もしますが。

      母は葛飾区(今は足立区かも)花畑の工場で飛行機のフロート作ってたんですが、物資不足で工場も早く終わる事が多く、午後はしょっちゅう日比谷公園に散歩に行ってたそうです。昔の人は距離感がちがうみたいですね(^_^;

      また月曜日にお会いしましょう!

      返信

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