ヒトも生き物
M田亀之助、1899年生まれ。ワタシの祖父です。葛飾区亀有にて材木屋を生業としておりました。材木屋というのは、現場もあるし、在庫の保管場所は野外なので、農家と同じくかなり天候に左右される商売であります。戦前でもラジオの天気予報はありましたが、当時のラジオというとタンスの上かなんかに置く完全据え置き型だったわけで、当然野外では聞けないものです。したがって、祖父は野生のカンで天候を予測していたのでした。
「鳥がうるせーな。降るぞ」「あの雲だと○時間後に来るな、傘もってけ」
外は日本晴れ。母は、こんな日に傘を持っていくのは恥ずかしい、とそのまま出かけます。そして祖父の予想通り午後にはちゃんと雨が降るのですが、「傘持ってけっていったはずだ。自分の責任なんだから、誰も迎えにいくんじゃねえぞ」と絶対に迎えにきてもらえなかったそうです。
台風が来る時も、かなり前から外回りを補強したり、材木をしばったり、といろいろやるわけですが、「これだけじゃだめだ。○時間経つと風向きが変わる。こっちもやっとけ」と丁稚奉公の若者たちをどなりながら陣頭指揮を執るのです。隊長の判断は絶対でした。判断材料は雲や風だけではありません。近くの製紙工場のニオイ、動物たちの行動。すべてを総合的に見ていたわけです。特に戦後中川の土手が決壊したときは、決壊する前から「ありゃだめだ」といいつつ家具を全部2階に上げ、店の材木でイカダを作り、ひたすら準備。「お宅の方、あぶないらしいってラジオで行ってるよ。帰った方がいいんじゃない?」と友達に言われて「まさかー。晴れてるじゃん」とのんびり帰宅した母は祖父にしこたま怒鳴れたそうです。でもそのときもどこにも水はありませんでした。ただ、犬猫がどこにもいない。見ると、動物たちがみんな勝手に2階にあがっていたそうです。そしてしばらくすると、まずちょろちょろという音が遠くから聞こえ、そのうち水が筋状につつーっと道路を伝い出し、果ては祖父が作ったイカダが後に非常にありがたがられるほどの水量に達したのでした。
この話を急に思い出したのは、今朝の日経の朝刊のこんな記事を読んだからです。
「インド少数部族、ほぼ全員が大津波逃れる・異変察知?」
1月15日日経新聞朝刊より
インド洋大津波の直撃を受けて約7500人の死者・行方不明者が出たインド領アンダマン・ニコバル諸島で、今なお石器時代と同様の生活を続ける少数部族のほとんどが難を逃れて生存していることが、インド政府の被害状況調査でわかった。高台や森に避難していたとみられる。続きを読む
近代装備=自然の破壊、とか、産業先進国文化の導入=伝統文化の崩壊、などという短絡的な物言いは、ワタシはあまり好きではありません。黒船を見物して驚いていた高祖父が晩年トマトをバターで炒めて食べていたとしても、ひ孫の母に「ものごとの道理」を伝えることを忘れなかった。外付けハードディスクを自分でつけてしまう母も、祖父が歴史の節目節目につぶやいていたことを伝えてくれています。どんなに忙しくても、空を見る2,3秒の時間が取れないはずはなく、いくら都会だといっても、どっかで鳥は鳴いているし、カラスくんたちとは毎日顔を合わせるのです。さきほどの「=」ははじめから「=」ではないものの、うっかりしてるとそうなってしまう。で、逆に、うっかりしていなければなんとかななるのではないでしょうか。
せっかく伝えてくれたものを伝えるべき相手が身近にいないので、せめてここのサイバースペースに残しておくとするか、てなわけでまたまただらだら書いてみました。うーん、いつになったら「ジャズ」になるんだろう。ま、いいか。